どうも人間として生きる才能がないようだ

アスペルガーの就職活動日記〜果たして自立できるのか?〜

人生 各ステージと発達障害

 

 

🤯←この絵文字、アスペルガー のわたしをよく表しているなと思い気に入っています

 

 

自分をないものとして生きようとするも

あまりにも自我強くて上手くいかなかった。

 

過去ばかりに囚われ未来を描く難しさ

 

自分を無視したツケが回り回って、こうして何度も社会から弾き出されていますが

時代の流れとともに「発達障害」が広く認知されてる今、

 

 

わたしもわたしと向き合えそうな気がします。

 

 

 

自己分析の一環として、丁寧に自分を洗い出していこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

生まれ

 

 

世界の社会構造とパワーバランスが変革し、日本ではバブルが崩壊し混乱の最中

なんとも先行き不透明な平成の幕開けとともにニトロちゃんは生まれました。

 

数年後には輝かしい21世紀が待ち構えています。

 

トロちゃんは赤ちゃんの頃、いい時代に生まれたと自負していました。

 

アナロジーな昭和時代が終焉を迎え

IT社会平成が始まったからです

 

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最新のマンションに住み、最新の家電、最新の情報の中での生活は、当時のパンフレットを読み解くに21世紀を強く意識していたのだと思います。

 

今思えばバブルの名残りを残した初婚夫婦は、新しい最新式の生活家電を取り揃えるよなあ…なんて思います。

 

 

 

変わり者の父と母の間に生まれたニトロはやや小さく 2800g でした。

か細い母ではなく、濃い父の遺伝を強く受け継ぎ反映したニトロ

 

両家共に初孫として生まれ、それはそれは親戚一同から祝福されてこの世に生まれ落ちました。

 

 

最初の疑問のうちのひとつが「どうしておじいちゃんが一人足らないの?」でした。

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固定観念の強いニトロの頭の中で

 

父母(2人)、1人につき男女それぞれ親が揃う

ということは、祖父祖母は2人づついるはず。

 

しかし、父方のおじいちゃんが足らない。なぜ?ずっと疑問でした。

まだこの頃は「死ぬ」や「0」の概念が理解できていなかったのだと思います。

 

 

 

ニトロの自我の芽生えは早く、3歳の誕生日を迎える前のことでした。

 

入園前の年ですね。

この時からはっきり、言葉を喋ること、記憶を留め学習すること、好きと嫌いの判断はできていました。

 

自我の芽生え以前のことはさっぱり覚えていなくて悔しいと常に感じ、

何度も振り返ろうとしますがやはり思い出せません。

赤ちゃんだから、何もできなくて当然のいきものだからと区切りをつけました。

 

成長面に話を戻しますと、わりかし早い段階で歩いたり、喋ったりできていたので遅れはありませんでした。

後述しますが神経質でありながらもネグレスト気味の母は、わたしの安定した成長にほっとしてわりかし放置気味にしても大丈夫だということを学習し、その後も最低限のお世話はしてくれましたが放任主義としてニトロを育てます。

 

 

2歳の頃、勝手に文字を覚えたニトロちゃんを父はとんでもない天才だと思い込みました。

 

トロちゃんは、食べることや寝ることお風呂に入ることなど、生活を面倒くさいものだと思いました。

 

赤ちゃんを卒業して二足歩行できるようになってからは「指示」はしてくれても「お世話」はしてくれなくなったからです。たしかに自分一人の力で出来るけど、面倒くさい。しかし、やらないとキーキーうるさい母が癇癪を起こすので「生活」には負の感情しかありません。

 

 

一方で、文字に強い興味関心を持ちました。

 

大人はみんな読めるからです。

 

そこに大事な情報があるとニトロちゃんは考え、子供が読めないのは当たり前だとする風潮を悔しいと思いました。室内のジャングルジムの天辺から見える位置にあいうえお表を張り出して、順番に読む訓練をしました。特に父や母が教えてくれていたわけではなく、記憶の音と推測を頼りに読めるようにしました。カタカナ表は用意してもらえなかったので、車に乗った際に、流れる景色から見える看板を見るたびに読んで口に出していました。読めたときの喜びは、今でも覚えています。

 

 

母が事情で実家に帰り、父方の祖母が少しの間わたしの面倒を見てくれた時期がありました。

優しい祖母だったのでわたしには何の問題もありませんでした。

 

歩くことを面倒くさがる子供でしたが、ベビーカーを強制的に卒業させられていたので変わりに籠に入れられて近所を散歩してもらっていたことを覚えています。

 

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字が書けるようになったのは翌年幼稚園に通い始めてからの授業で習ってからです。

ひらがなドリルをなぞらせるだけの授業だったので、あわよくば覚えれたらいいねくらいの簡単なものでした。

 

 

 

 

幼稚園

 

初めて社会性を身につける最初の難関です。

アスペルガー の特徴を持った子は大変にむずがったのではないでしょうか?

 

もちろん、わたしも大嫌いでした。

理由は面倒くさいからです。

 

幼稚園の卒業ソングに「お迎えのバスが着て嫌だと泣いたこともあったね」って歌詞があったと思いますが毎日それでした。本当に嫌で嫌でたまらないです。何が嫌かもわかんないけど、全体的にダメでした。

 

この頃から既に社会性に巻き込まれる自分を危惧し拒絶反応は示していますね。

 

でも、どんなに嫌がっても小さな身体なので強制的に連れて行かれるんですよね。

そのうちルーティン化されると慣れて素直にバスに乗っていたと思います。

最後まで幼稚園は大嫌いで休むことを許されるのなら休んでました。

 

 

友達

というものが自然と出来る環境だと思いますが、わたしは完全に受動型であり、自らの殻を破ることはしませんでした。あの子は好き、この子は気が強くて意地悪だから嫌い、という感覚に従って特定の子としか仲良くしませんでした。そしてその特定の子に鬱陶しがられていたことも覚えています。

 

人との距離感や嫌われることがわかんなかったんでしょうね。

でも友達と遊ぶことは好きでした。

 

 

 

幼児に見られる特徴を見ていきます

 

 

*一人遊びを好む

 

自閉世界は確実に持っていました。例えば園外実習の時に外に連れて行かれて自由時間に遊べと放たれると、一人で砂を集めたり団子作ってました。ただ、そうしていると他の子も寄ってくるので結局誰かと一緒に遊んでいたと思います。完全なる孤独な子、社会性が一切ないとは言い切れませんでした。

 

 

*ごっこ遊びが苦手

 

うーん、よく覚えているのが、戦隊モノや女児アニメや家族モノの役柄設定を決める段階で希望するポジションに付けなくてすぐに飽きていました。わたしだけじゃなく周囲も集中力がなかったのか長続きしていませんでした。逆に役に固執する子を変だなあ面倒だなあという目で見てたかも。

 

 

*同じ行動を繰り返す

 

好きといえば好きです。理由は脳が気持ちよくて安定するからです。

しかし病質的に繰り返してはいなかったと思いますが、客観的に見ていないのでわかりません。

 

 

*融通がきかない

 

父によくワガママ娘、頑固と叱られていました。おそらくはそのとおりだと思います。

 

 

以上から、

主観的に自分を振り返り、発達障害の特性は持っているものの子供特有の神経質さの範疇に収まるかと思います。

 

 

小学生の頃、アスペルガーだと診断を受けた際に最も印象的だったのが

 

穏やかな子だったので自ら危険なことはしませんでした

 

と母が語ったことです。

 

この時(お医者さまはわたしに犯罪者の資質があるのか母に問うてるのか?)と

別次元に思考を巡らせていましたが、多動性の有無や危機管理能力を伺っていたと思います。

 

 

幼稚園で覚えてることは、

 

*月一程度理由もなく癇癪を起こして時々大泣きしては先生に打たれる

(お寺の幼稚園だったからか、時代がまだまだ昭和の香りを残していたのか、厳しい体罰がありました)

 

優しくて泣き虫でした。感情のコントロールは不得手でしたが子どもってみんなそうですよね?

3歳児に多くを求める方が残酷だと思います

 

*多動性の子供が理解できなかった

いました。ADHDの特徴を持っているのか、まだ自我が芽生えておらず先生の指示がきけないのか。

全く理解ができなかったのでわたしはこの点では社会に順応し、指示通りのことをしっかり聞いて行動していました。しかし、年少組のとき一度だけ給食の時間に、数名が席を立ち窓の外を見ようとして自分もつられて立った瞬間に先生に打たれた時のことを今でも覚えています。先生の顎にはいつも梅干しのコブがありました。怒りやすくて自分に余裕がない先生だったと思います。

 

*気がつくと一人で遊んでる

友達と遊ぶのも好きでしたが、一人で遊んでるのも好きです。砂を大量に集めてハンカチに入れたら先生にめちゃくちゃ怒られたのを覚えてますね。先生、子供に厳しすぎません?それとも大勢の子供を管理するにはそれくらいのことが当然だったのか?わかりません。

 

*先生から愛されない

嫌われてると常に感じていました。理由はわたしの性格にあるのではと幼稚園の頃悩みました。

結局アスペルガーだったから「何考えてるのかわからない子供」に位置して、言うこと指示することは素直に聞けるので腫れ物扱いを受けていたと思います。特別、サポートを必要とする子供ではなかったんです

しかし先生方による疎外感は纏わりつき不安は離れなかったです。

 

本当はもっとお喋りしたかったですね。

この、サポートを必要としない点にも疑問は残ります

 

*休みがち

月に一回は必ず休んでいたので、皆勤賞は夢のまた夢でした。興味もなかったです。

身体が弱いわけではないんですけど、ネグレストな母は栄養価のある食事を作らなかったので免疫力は常に低く簡単に風邪をひいていました。風邪を引くと休めるのでご褒美に感じていました。

強い感染症といえば、3歳の時に水疱瘡にかかったくらいなので本当は頑丈な身体だと思います。

 

 

*言葉の詰まり

卒園を控えた冬に突然、言葉がつっかえて頭文字しかいえなくなる症状が何度か出ました。

おそらくは吃音症です。「お、お、お、お、おはようございます」みたいな感じで最初の言葉が出ません。

意識し過ぎると喋れなくなって、忘れていると普段通りにおしゃべりができます。

 

周りの大人は気付かず、病院に行くことはしませんでした。

しかしその恐怖は今でも続き、喋れなくなる恐怖は付き纏います。

考えすぎると喋れなくなるので、今でも考えをまとめるまえに一気に喋り、整合性を求めながら会話を紡いでいます。

 

吃音症はストレスだと幼児の時点で自覚していました。

観察をすると、だれも、完璧に喋る人はいません。みんな何かしらの癖を持っています。

言語は自由です。呼吸と同じです。

なので吃音症の可能性はもっていても、特に気にすることはありませんでした。

 

あとは、映画などを見ているととりわけ知能の高い繊細な人物に多く症状が描写されているので私は頭が良すぎるから、言葉をたくさん持っているからアウトプット出力の際詰まるのだと脳内で図式化し自らを慰めていました。いやな6歳児ですね、少なからず自分を賢いと思っていたんです

 

 

 

*記憶を留めようとしていた

年中の秋、つまり5歳の頃母のお迎えが来るまでの時間外の遊具で遊んでいるときに気付きました。

時間は流れて、今この瞬間遊んでいる情景も記憶と共に消えてしまう。(短期記憶が苦手)

 

なので、この時より意識的に「この瞬間を忘れないでおこう」と記憶を留める癖が始まりました。

思い出を愛おしむことを、わたしは愛でていたからです。

 

自我が芽生えてから赤ちゃん時代を思い出せないことや、ハンディカメラで昔の映像を見る楽しさがあってのことです。

 

サヴァン能力は備わっておりません。高度な記憶保持や演算機能は持っておりません。

しかし、記憶力がズバ抜けて高く妙な所まで覚えていたりしました。

 

これは、子供特有の脳が柔らかくスポンジ状態だったために映像記憶や暗記が自然にできていたのだと思います。なにより、前向きに情報に対して興味を持っていましたからね。

 

その肝心かつアスペルガーにして唯一の長所、記憶力は今のわたしにはありません。

おそらくは社会に出てあらゆるストレスにより処理能力が回らなくなったからだと推察します。

この点からも、自らをアスペルガーと位置ずけて良いのか迷います。

記憶力がなければ、ただのポンコツにしかならないからです。

 

症状を共有する他の方を傷つける他意はありません。現段階での自己評価についてです。

今まで自己の障害を閉塞的に捉えていたので、考えを改める必要性を支援の方を通じて感じました。

 

しかしまだ現状では、「私は欠陥を持っている」にしかなりません。

 

 

 

 

小学生

 

そのまま校区の学校に進学しました。

雨の日に行われた入学式のことを覚えているんですが、式が終わり教室の戻ると隣にはF君という名前の男の子が座っていました。そして。目の前に用意されたお道具箱からハサミを取り出し、配られたプリントから作品を作る指示が担任の先生よりだされました。

 

早熟していた私は手先が器用だったので早々に切り終えることができました。

びっくりしたのは、F君のハサミと紙の使い方です。

各自創意工夫を凝らしながら切りやすいように好きにハサミを使っていたのですが、その子が最も効率のよいカットをしていたんです。

 

(私の切り方とF君の切り方とどっちが効率よいのかな?私の方が早かったけど、それは急いで切ったからであって、速度を同じにしたら男の子の方が正しいのでは?先生はこの切り方をマニュアル化すればいいのに)

 

Fくんの印象が強かったのは、お母さんではなくお父さんがそばにいたこともあります。

後から聞くと両親ともに多忙な教師だそうです。

Fくんは小学生の時は高圧的な態度で嫌われていましたが、後にそのマイペースさも受け入れられ東大に進学しています。私が初めて、私より知能レベルが賢いと感じた“人”を見た瞬間でした。

 

 

 

 

小学生の私は、ある程度のことを卒なくこなすことの出来る子供でした。

賞状コレクターの面を持っていたので、努力せずに会得できるギリギリのラインを狙って

だいたいの賞状は貰っていました。皆勤賞系は取っていません。

 

(学期ごとのコンクール、夏休みの課題研究、絵画、スケッチ、書道、スポーツ、部活動)

 

校内部での賞状は常連だったので学期が始まる式ではよく舞台に上がって賞状を貰っていました。

とはいえ、自分を優秀だとは思っていなかった理由にもっと賢い子が何人もいたからです。

どの分野でも1番にはなれなかったので、自分のことを平凡だと思っていました。

賞状が頂けたのも当然のことだったので喜びはなかったです。

 

私は校区に所属するスポーツをやりたかったんですけど、母が子供の土日の管理ができず願いは叶いませんでした。

 

 

*スクールカーストについて

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気の強い子がトップに君臨する典型的な図式で、

穏やかである私ですがクラス内で権力を持った子と仲が良かったです。

 

理由を推察すると、ある程度勉強とスポーツができたからでしょうか。

身長が高くよく目立っていたこともあると思います。

あとは…当時流行ってたナルミヤブランドを着てたこともあると思います

 

もう一つは学童に通っていた為、気が強い友達ができたからというのもあります。

 

小学5年生あたりから、友人関係に陰りが見え始めました。

誰かを仲間はずれにしたり軽くいじめて無視することを子供たちが覚え始めたからです。

 

いじめにあまり興味はなかったのですが、だんだんと私に向いてきます。

この辺りから「変わってる」と言われるようになったからです。

無視や仲間外れはまだありませんでしたが、微妙な空気感を感じ始めています。

 

小学6年生になると、一旦そういった煩わしさからは解放されたクラス編成になります。

 

 

 

*学童

放課後から19時まで子供を預かってくれる施設です。

保育園上がりの子供が多く、強気でやんちゃな性格の子が大勢いる環境に放り込まれて最悪でした。

でも、歳の離れたお姉さんに可愛がってもらうことですぐに溶け込みました。

同級生より高学年の子たちに呼ばれることが多かったです。

 

 

 

ここは規律が厳しかったのでどことなく戦時中の教育を思わせました。

放任主義の両親の元に育った私は学童に通ってた2年間で習った躾を今でも感謝しています。

 

幼稚園の頃のような理不尽な叱り方もなく、理に適った躾に文句は一切ありません。

余暇時間はたっぷり遊んでくれるし、甘えても許してくれます。

 

厳しくて怖い先生2名いましたが、子供のことをきちんと見てくれるので大好きでした。

バイトの若いお兄さんお姉さんを頼りないなあと思ってました。

 

ルールといえば、例えば…

 

*食事の前は必ず手を洗い消毒

*食事中はお喋り禁止、髪を触るのも禁止

*口に入った状態で立ち上がってはいけない

 

など、本当に基本的なことです。

私は今までこういった教育がなされなかったので『きちんとした人間』になれると思い喜んで従っていました。

軍隊的というか、規律ある生活は合理化が進んでいるので性に合っていました。

学校よりもずっと過ごしやすかったです。人間関係は大丈夫でした。

 

さらに助かっていたのが宿題を必ず解いて答え合わせまで済ませてくれることです。

4年生になると九九を習うのですが、ここでもしっかり教えて貰えたので学校で困ることもありませんでした。

 

5年生になると鍵っ子になり学童を辞めてしまいます。

困ったのが宿題でした。

どうも、私は学校から帰ると何もしたくなくなってしまうので寝てしまいます。

 

翌朝5時に起きて学校の準備をするようになりました。

 

 

 

 

*生活

 

 

母親も実は、発達障害の気があります。

子供を朝送り出す母親像を私は知りません。

 

小学3年生の時点で勝手に起きて勝手に食事を済ませて勝手に学校に行ってました。

7時に起きて7時半に家を出るのにこのタイムスケジュールは無理があると気付き

どんどん朝起きる時間が早くなります。

 

最終的に5時に起きて、家事を済ませて宿題を済ませて登校していました。

 

自立しているといえば、していますね。しっかりした子だと思います。

誰にも言われずにここまで出来るのなら、支援なんて必要ないのでは?

 

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*家庭環境

 

両親ともに働いていたので常に寂しかったです。

甘えることができませんでした。

父も母もわたしも整頓が苦手だったので家の中はしっちゃかめっちゃかです。

 

しかし規律ある散らかしだったので失し物が少なかったです。

 

 

音読を聞いてもらう宿題が出て、サインを貰わなきゃならないんですけど、一度も聞いてもったことないし、自分も面倒くさがりですっ飛ばしてました。国語の授業で成果をみるために淀みなく読めるかテストをするんですけれど、記憶力の良さでつっかえることもなくわたしはクラスでもっとも読める子でした。

 

 

家族全員、遺伝的要因から発達障害の気があります。

 

しかし私以外はみんな社会に順応し毎日外にでています。

家庭内では、ベタベタすることも喋ることもしません。

食卓を家族全員で囲むこともしません。相談も助け合いも馴れ合いもないです。

一応みんな各自部屋を持っているのに全員リビングに集ってそれぞれ音楽を流したりテレビや配信動画をみて一気に4つの音が同じ部屋で喚いてる時は流石に狂ってると感じます

 

(わたしはテレビの音が嫌いなので誰もいないリビングが好きです)

 

家事も全員苦手なようですが、最低限のゴミ出しを父がルーティン化してるお陰で

ゴミ屋敷化はしません。洗濯も好きなので溜まりません。

食器洗いや風呂掃除、トイレ掃除、床掃除は誰かが気が向いたらって感じです。

 

母がものに執着し、捨てられないのが困りごとですね。

 

 

*

 

*性格

 

大人しく自分から意見を言ったりはしません。しかしよく人の目を引き目立つ方だったと思います。

また学級委員を務める気質ではありませんでしたが、時々推薦はされていました。

人を馬鹿にしたりいじめることをしなかったので、どの年代でも男子に好かれていたと思います。

 

 

*活字中毒

 

任天堂のゲームが大流行し、我が家にもゲーム機は揃っていましたがどうにも私はゲームではなく本や小説の方にハマっていました。病的なハマり方はしていませんでしたし、しょっちゅう買ってもらってるわけでもなかったので全て読み終えると、母の実家に置いてある小説にまで手を伸ばしていました。

 

アスペルガーの人は本を読むことが苦手な方もいると思います

わかります。私も教科書や資料、ブログ、新聞、全然読めません。

興味のないツイートも頭の中に入りません。

 

小説も構成によって読めないものも多いです。でも、読める文字を常に探していました。

 

 

宿題や長期休暇の課題のアプローチ

デッドライン症候群だったので基本的にギリッギリまで溜め込みます。

親に連れられて大人しかいない暇つぶしもできない環境に行くと分かっていれば事前に課題を持っていきその拘束時間内で解いて過ごしていました。勉強自体は苦ではなかったのでやり始めると集中してすぐに終わらせていました。日々の宿題も翌朝解いてから学校に行っていました。なので、期日だけはしっかり守って忘れ物もほぼなかったです。

 

*趣味

 

一家に一台パソコンの時代が到来します。

わたしが調べていたのは戦争に関することと犯罪と人体構造でした。

そこにしか興味がなかったです。タナトフィリアだと思います。

 

健康

 

相変わらず感染症知らずで強く生きていました。学級閉鎖になってもしぶとく生き残るタイプです。

ツベルクリン陽性反応を示し唯一ハンコ注射を免れる強運というか免疫力を持っていました。

しかし、ずさんな食生活と怠惰な性格で相変わらず学校は休みがちで保健室に行ってサボっていました。

 

発達障害の観点から見ると、ストレスに晒されやすい体質のもと人より多くの休息を必要としていたかもしれません。授業中に寝ることはありませんでしたが、やはり眠気は常に感じていました。

 

心電図には必ず引っかかり、保険医に連れ出され授業中抜けて病院で再検査することも何度も経験していますが、いずれも緊張しすぎとのことでした。

 

幼稚園に引き続き、毎月何かしらで休んでいます

 

1週間休むことを2年生から毎年するようになりました。

 

2年生の時は風邪を拗らせて

3年生の時は母が実家で世話をする為に家を空けがちになった寂しさから仮病

4年生は…覚えていませんが多分高熱が出て様子見で休んだかな?

5年生はズル休みです。母を納得させる為の仮病に磨きがかかりますが1週間も騙すのは大変です

6年生になると母は諦め初めていました。

 

1週間休んでも勉強に困ることはありませんでした

1週間ずっと寝るか漫画を読んで過ごします

 

引きこもり体質でした

 

 

フリースクールに通いたかったんですけど、母が嫌がりましたね

 

 

*診断を受ける

度々学校を長期的に休むようになったニトロをどうしたら良いのか分からない母は学校に相談しました。

主任の先生に「××心療内科を受診するといいよ」と勧めてくれた先が今でもお世話になっている病院です。

 

ここで知能テスト心理テストを受けさせられ、アスペルガー症候群であることがわかりました。

発達障害だと言われて、ひどく狼狽えたことを覚えています。

 

アスペルガー発達障害も初めて耳にする言葉でした。

21世紀が始まって数年経ったこの当時、インターネットで検索するとたしかにその症状に苦しむ子供を持った母親たちの活動記録などのホームページがいくつか見つかりました。内容はとても悲しく、そして学校生活でも普通にコミュニティの中にいたニトロにとって否定しがたい情報の数々でした。

 

 

ニトロはアスペルガーによる二次弊害が強いことにまだ気付いていません

人より多く休息を必要としていること、時間管理が苦手で前もって沢山時間を取ること、睡眠が必要なこと、家事ができない、人の心がわからず怒らせる、友達が少ない、人には距離感を求める、それでも、悩まずにカバーできていたのは愛されていたからだと思います。周囲の人が愛してくれて欠落したニトロを赦してくれたから。

 

期日だけはきちっと守り社会規範から飛び出さず粛々といきていた変わり者ニトロを大切にしてくれた周りの人たちの愛情あってのことだと思います。

 

 

 

こうしてみると、小学生の頃は困ったことは少なくむしろ早熟した出来た子でした。

発達障害には、学校生活はちょっと変わった子程度で済まされ大きな問題なくとも

社会に出て症状に困る人も多くいるとききます。

 

ただ、診断がくだった10年前よりも発達障害の割合は増えてるように感じます。

こうした脳の作りがネット社会の繁栄と共に広く認知されて、

日本特有の空気を読む文化に合わない人たちが自覚し始めているのでしょうか?

 

これを病気と呼ぶなら国民病ですし、全員がなんらかの特徴を有してると私は感じます。